英語との格闘
私の英語学習遍歴
2007年2月28日
2007年2月28日
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明海大学教授 投野由紀夫 Tono Yukio 収集癖、目立ちたがり屋、物まね大好き![]() 「英語教育」2007年3月号(大修館) → 目次はこちら → 定期購読はこちら From "The English Teachers' Magazine" March 2007 Vol. 55 No. 14 (Taishukan) さらに別の面で見ると、非常に目立ちたがり屋であった。幼稚園の学芸会は「桃太郎」だったが、自分は脇役のイヌ。桃太郎役の友達が直前で風邪でダウン、イヌ役の私だけが桃太郎のすべての台詞と踊りを覚えていて、急遽代役で主役を演じ拍手喝采!その後は味を占めて、小学校の学芸会ではずっと主役級。声もでかかったし、台詞の暗記も得意だった。当時ラジオでやっていた『欽ドン』(萩本欽一のお笑い番組)の視聴者コントのねたを覚えてみなの前でやって見せたり、『男はつらいよ』の寅さんの第1作の面白さに衝撃を受け、「角は一流デパートの赤木屋、黒木屋、白木屋さんで…」と叩き売りの口上を丸暗記したりした。そういう中で、上手な喋り方のリズムや間の取り方とか、そっくりそのまま真似て言うのがうまくなった。これは後に英語をやる時にかなり役に立ったと思う。 日比谷高校時代〜英語への開眼中学は塾など全然行かなかったが家での予習復習だけでほとんどオール5の成績。特に英語が得意という意識もないまま高校受験。入った高校は都立日比谷高校だった。ここからがちょっと大変。中学では出来たように思えた勉強も、高校では思うようにいかない。英語も急に難しくなり、1、2年と低迷する。部活は合唱部に没頭したため、2年生の頃は特に学力的に落ちてしまい、2年末の統一模試では400人中300位くらいだった。スイッチが入るのは高校3年の時。1、2年もずっと塾や予備校に行っていなかった自分は、自宅でやれるということで通信添削を選んだ。当時難しいので定評のあった○○会である。最初の数か月はまったく歯が立たなかった。答案を完成できず、返送しなかったこともしょっちゅうだった。部活が忙しかったのであまり答案を作る時間がなかったせいもある。夏休み前くらいから、本格的に問題を解くようになった。1つの英語の長文を2、3時間かけて辞書で調べ上げ、答案を作った。単語力もまだなかったから、とにかく何度も辞書を引いた。1枚の答案を作るのに丸一日がかりだった。それでも返って来る答案は60点くらい。赤でびっしり添削してあって見る気もしなかった。 この頃使っていた辞書は三省堂の『クラウン英和』と研究社の『英和中』だった。英作文をするのに山田和男の『クラウン和英』を買った。これで用例の鮮度がいいのが自分でもわかったので、『カレッジクラウン』も買って、しばらく三省堂びいきになる。持ち前の凝り性がむくむく頭をもたげてきて、1回の答案を作るのに辞書を4、5冊引き比べてみたりするようになった。答案を送る際にも、「この定義は『カレッジクラウン』を見ました」とか解説を加えるようになった。英語とじっくり格闘するような態度が徐々に生まれてきた時期だった。 運命を変えた添削指導者そうこうしているうちに、添削担当者が代わった。この人が偉い人だった。コメントが実に詳しく、私が辞書をたくさん使うのに対抗するように英英辞典を多用して解説するのである。今思えばこの添削をやってくれた人の英語力は相当なものだった。もし再会できれば会ってお礼が言いたいくらいである。しばらくするとこの人がコメント欄に「君もそろそろ英英辞典を使うといい」といって、当時出版されたばかりのロングマンの英英辞典(LDOCE 初版 1978年)を薦めてくれた。ロングマンを開いて定義文を読んだ時の衝撃は今でも記憶に生々しい。同じ英語辞書でもこうも違うものか! 平易な英文で書かれた定義文と例文の素晴らしさに感嘆。1冊では飽き足らず、ロングマンの出版前から○○会でも引用されていたホーンビーのISEDも購入した。これも小さかったが実にいい辞書だった。私の答案作成時間はますます延びた。辞書を引き比べ、定義文をノートにびっしり書き写した。どうしてこういう定義の違いが出てくるのかを不思議に思ったりして、コメントを書いたりした。半分研究者気取りになっていたのかもしれない。答案作成は1日3、4時間で2日から3日かかるようになった。 当時まだ元気だった父(公立中学校の英語教師)の書棚が気になりだしたのはこの頃である。父は辞書はあまりたくさん持っていなかったが、研究社の『大英和』や『勝俣活用』があった。これらの辞書も父から借りて、私の机の上に並ぶようになった。これらの英英辞典の内容や、英語辞書のそれぞれの特徴を引き比べながら、英語の添削問題を解くようになって、自分の興味は俄然英語の世界に惹かれていった。おそらく私ほどいろいろな辞書を引きながら勉強した高校生は数少ないのではないかと思う。同時に英語の成績もぐんぐん上がっていった。2年の終わりでは中の下くらいだった成績も、3年の夏休み明けには日比谷の校内模試で英語1位に躍り出た。通信添削でも徐々に成績優秀者のランクに顔を出すようになり、難関大学向けのカテゴリーで首位になったこともあった。この頃、自分は東京学芸大学に行って英語の教師になろうと決めたのであった。 大学1年目の屈辱幸い第一志望の東京学芸大学に入学できた私は「辞書オタク」の極めてイヤな新入生であったことだろう。最初のガイダンスで辞書紹介の時間があり、英語学のI先生がPOD、COD、OEDなどを挙げて紹介をした。その時私はLDOCEの名前が出てこないので、「ロングマンの英英辞典が一番使いやすいと思います」と言うと、その先生が「知らない」と言ったので、内心「大学教授もろくなものではない」と思った。(I先生にはその後いろいろご指導いただくのであるが…)さらに、1年の担任になったのが、スタンフォードから帰国したばかりの金谷憲先生だったが、私はなんと先生の第1回目の授業の時に、無礼にも自己紹介で「私は若い先生は好きではありません!」と言い放ち、金谷先生はにやにやして「まあ、年もわりと近いから一緒に勉強するつもりでいきましょう」と言われたのを今でもよく覚えている。大学に入ってからは英語辞書収集が本格的な趣味になり、大学3年で300冊以上所有していた。先生方もだんだんと「辞書のことは投野に聞け」と言うことが多くなっていく。ところが自分にとって大変ショックだったのは、生まれて初めて大学でネイティブ・スピーカーによる英会話の授業を受けた時だった。あんなに苦労して勉強し、得意だと思いこんでいた英語がほとんど口から出てこなかった。自分は喋るほうは、からきしダメだったのである。さらにショックを受けたのは、羽鳥博愛先生と金谷先生が講師をなさるというので1年の夏休みに参加した英語集中合宿(Intensive Training Course:通称ITC)。一緒のディスカッション・グループになった関西の経済学部の2年生が英語のうまいこと、うまいこと! 彼の前で私の英語への自信は完膚なきまでに崩れ去った。彼はその時、「君は金谷先生のような素晴らしい先生に直接教わってとてもラッキーだ」という趣旨のことを言われた。そうか、自分は非常に恵まれた環境で勉強できているのだと、初めて自らの不明を恥じたのである。 使える力への転換大学1年後半から自分は英語学習の戦法を変えた。今までの辞書首っ引きのねちっこく英文を読むばかりだったのから、英語の独立系回路を頭に作るような練習に切り替えた。まず辞書を引きまくりたい衝動を抑えて、英字新聞の社説を辞書無しで速読する習慣をつけた。自宅から大学までの電車の停車駅間の時間計算をして、タイム誌のカバーストーリーを読みきる、という目標を立てたり、山手線の新宿から五反田までの15分間でNew York Timesの社説3本を読みきったりした。またこの頃から梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書)に触発され、京大式カードを使って気に入った英語表現の用例カードを作り始め、それを1日10個くらい使って自由英作文を書いてトピックごとにカードで整理する、というようなことをやり始めた。つまりこの時期に大量に読み、大量に書く、という作業を相当量こなしたのである。これを1年くらい続けると、受験英語一辺倒だった自分の英語の力が一つの言葉として独立して機能し始めるのがわかった。読んだものが日本語を介さず一直線に頭に入るようになった。FEN(米軍のラジオ放送)の英語が突然くっきりと聞こえるようになったのもこの頃である。英語集中合宿でもめきめき上達し、人前でのスピーチやディベートもかなりうまくなった。そうこうしているうちに大学3年で英検1級をとり、TOEFLも610点くらいとって国費派遣留学生として1年間米国留学をすることになる。1年間アメリカにいて帰国した直後に、国連英検特A級に合格したから、この頃には英語力はかなりのレベルになっていたと言えよう。 教員なりたての10年私の英語学習が最も劇的な変化をとげたのは大学時代だったと思うが、教員になってからの10年は逆にいかにその力をメンテナンスするか、ということが課題だった。最初に勤めた高専では英語がやさしくなった分、自分でも手抜きになってしまい自分自身の英語力が極端に落ちていくのを感じた。その後、学芸大に戻ってからは、自分へのチャレンジとして一般英語や教科教育の一部は英語だけで教えた。また大学院を出てからは、研究論文は原則すべて英文で書く、ということを自身への課題とした。それでも増えていく公務、出版社の原稿、さまざまな雑用で、徐々に自分の英語力を鍛える時間が減っていくのを感じた。同時に、研究の面でも新しい潮流(それが「コーパス」であった)への興味と、博士論文を書きたい、という気持ちが強くなっていき、仕事と勉強のジレンマに襲われた。再留学そして今私はその後、お世話になった東京学芸大学を辞し、英国ランカスター大学博士課程でコーパス言語学を勉強するために渡英する。30代半ばであった。家族は無職になった私のおかげで1年間生活保護を受け、3年間貯金だけで食いつなぐという傍から見たら無謀な生活をした。その際、2年目からは家内と子ども5人をイギリスに呼んで、極貧の勉強生活をしながら博士課程を終えた。留学から帰ってきた時には、我が家の全財産は100万円を切っていた。ただただ家族に感謝するしかない。しかしこの3年間は私に新たな自信を与えてくれた。イギリスにいる間に英語のキレは戻ってきて、論文を書くのも国際学会で発表するのもそれほど苦ではなくなった。以前は参加できなかった第一線の研究者との質疑応答も丁々発止とやることができるようになった。アメリカ英語からイギリス英語(気味)で話すようにもなった。多くの研究者が私の論文を読んでくれ、交流の輪が広がっていった。3年間はそれ以上の価値ある時間だった。 帰国してから6年。NHKも3年間やったが、まだバイリンガル・タレントさんほどペラペラではないかもしれない。しかし、自分の中には普通の日本人が普通に英語を習って、それを言葉として使えるような工夫と努力をすればこうなる、という自信ができた。「天才とは1%の才能、99%が努力」と言った人がいるが、私はそういうタイプだったと思う。 |
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「英語教育」2007年3月号 |
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